本屋好きの日常

BOOKSHOP LOVER=本屋好きの日記

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「尖っている」ということ。

本と私の世界

昨日、essereさんと飲んで、企画のトークショーの企画の話をしていた。

生協のトークショーで集客するにはどうしたらいいか。でも、あくまで利益目的ではなくて「学生のため」という趣旨で。云々。

僕はメインの客層が学生だとしたら尖ったことをやればいいのでは?学生さんならそれで「面白い」と思って来てくれると思う(というか、僕なら行くってことだけと 笑)と曖昧な答えをしてしまったのだけれど、この「尖ったこと」って何だろう?

尖っているって良く表現とか生き方とかに対して言うことがあるけれど、どういうことだろう。多分、尖っているって「他の人にとって何か気持ち悪いこと」なのかもしれないと僕は考えた。

今までにないこと。もしかしたら受け入れられないかもしれないこと。思わず拒否してしまうようなこと。もしくは、「誰かを傷付けるかもしれないこと」だとも考えた。もしかしたら誰かに迷惑をかけてしまうかもしれないこと。敵を作ってしまうかもしれないこと。「丸く納める」って表現があるけれど、これは誰にも迷惑をかけない。角が立たないこと。という意味として使われると思う。「尖ったこと」っていうのは、だからこの真逆なのだと思うのだ。

「今までにないこと。もしかしたら受け入れられないかもしれないこと。」だから、「もしかしたら誰かに迷惑をかけてしまうかもしれないし、敵を作ってしまうかもしれない。」もちろん誰か確実に迷惑がかかる人には事前に断りを入れることはすべきだろう。最大限、迷惑をかけないようにする努力は必要だ。

ただ、それで「やれない」ということになりそうだったら断りを入れないことだってあり得るし、「迷惑をかけない」に力を入れすぎて、できなくなったら意味がない。世の中には「新しいこと」自体に疑惑の目を向ける人だっているし、誰にも迷惑をかけないでやるなんて無理だと思う。

それでも、やる。やりたいと思ったことをやる。

それが「尖ったこと」であり、きっと学生さん(あと僕)は、「そういうリスクをとってでもそれをやりたい」って気持ちに反応するのだと思った。
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  1. 2012/09/25(火) 21:36:29|
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組織が嫌い。

最近、一緒にお酒を飲んだ人にはよくこう言っています。語弊があるので、どういうことかと説明しますと、どうも僕は「組織(特に大組織)」というものを信用できないものじゃないかと思ってしまっているのです。

組織ってやつはとても便利なものです。一人ではできないことも人数が集まればできる。さらに分業してやれば、効率的に結果を出すことができる。組織の力は本当に凄いです。

株式会社を日本で始めて作ったのが坂本龍馬だというのは有名な話ですが、社会に対して自分のやりたいことを説明してお金と労働力で応援してもらうってやり方は大発明だと思います。人間、集中してやった方が成果を出すってのはありますよね。大会社の社長が経理業務なんてしているヒマはないのです。役割分担。当たり前ですが物事をうまく運ぶためにとても重要なことです。

ところで、人間ってどれくらいの人数までなら組織としてうまくいくと思いますか?誰の理論か覚えていませんが、最大でも150人までなんだそうです。そこから、50人→15人→5人と関わりが深くなっていくそうです。

今、読んでいる「ナガオカケンメイの考え」という本の中でもありますが、基本的に組織というものは社会に対して設立者≒社長が実現したいことを実現するために存在します。だから、「組織で自己実現」という言葉は、そもそもの始めから破綻しています。もしあるとしたら、設立者≒社長の意思と自分の意思が限りなく近い場合です。 そういう人が社員だった場合、その人は評価されますし、社員にとっても良い会社と思えるでしょう。

組織はある程度の規模になってくると、「設立者の意思を通す」という目的だけのために存在するということはできなくなって来ます。150人を超えて、生活のために仕事をする人。割が良いからその仕事をしている人。別に組織の目的を達成することが社員の目的である必要はなくなり、結果として、「組織を維持すること」が目的の一つになってしまいます。

「社員が路頭に迷うから」「これをやるとあの人が困るから」

しかも、管理者もそうやって優しいことを言ったりするのでしょう。誰だって悲しい顔は見たくありません。でも、そうやっていくと組織が自己目的化して、もともと達成したかったはずの設立者の意思はどこかにいってしまいます。そうやって色んな調整に明け暮れた挙句、何も特色のない会社が生まれるのではないかと思うのです。

目的を達成するためには余計なものを捨てるという局面もあるでしょうし、誰かの意見を拒否しなければいけないことだってあるはずです。たとえ相手が今まで頑張ってくれた人でもそれは同じです。同じはずです。

別にそれが悪いとは思いません。誰しもが目的のために頑張れるわけではありませんし、生活は大事です。世話になった人に不義理はしたくありません。僕が組織が嫌いな理由はこれまで書いたことの中で二つあります。

組織が「設立者の意思を通すためのものであること」と「組織が大きくなると自己目的化してしまうこと」です。

まず、組織は「設立者の意思を通すためのもの」です。ですが、誰か知らない人の意思を通すために自分の時間を使うというのはなかなか納得するのが難しい。誰かが作ったシステムを回すのは大事なことですが、それを気に食うか食わないかは別の話です。そして、その気に食う食わないは会社の外からでは分からない。入ってしまってから後悔しても遅い。それを合わせていくのが大人なのかもしれませんが、どうもそれはウソ臭く僕には映ります。

「気に食わないなら変えればいいじゃないか」。優秀な人が言いそうな台詞ですね。組織を変えて、それでどうなるのですか。そのシステムは「設立者の意思を通す」という大前提のために作られたものです。この大前提は会社が無くならない限り変わりません。だって、そもそもそのために作られたものなのですから(念のため書いておきますが、今の会社のシステムを気に食わないと言っているわけではありません。我ながら悪くない環境で働かせて貰っていると感謝するくらいです。)

それでも。納得はしないでも将来は不安です。将来と今とを考えて、生活のために今の居場所に僕はいます。「組織が大きくなると自己目的化してしまうこと」。これも仕方ないことです。なんたってこういう事情があるからこそ、僕のような人間でも今の仕事をしていられるのですから。

ですが、僕は本来は仕事というものは、「自分がしたいことをどうやってしていくか」に尽きるのではないかと思っています。その「したいことを組織の目的と合わせて行けばいいじゃないか」と言われそうですが、できる人はしたら良いと思います。絶対にそっちの方が良い

けれど、合わせることができない人もいると思います。表には出さないけれども、仕事はちゃんとするけれども別にしたいことじゃない人なんてたくさんいると思います。では、そういう人が自分がしたいことでどうやって日々の糧を得ることができるようになるか。

それを見つけるのはすごく難しいです。そもそも「したいこと」って何なのか?あったとして、それで社会に価値を与え対価を貰うことができるのか。入ってしまった組織でいかにしてそれを見つけて育てるか。そもそも育てることなんてできるのか。

日々の生活のために僕は今の仕事をしています。そのスタンスは今のところ変わらない。だからと言って、仕事をテキトーにするわけではありません。任された仕事は責任を持ってやります。今の上司は尊敬する面もありますし、感謝することもあります。貢献できる範囲でならしたいと思っています。だから、自分が「仕事がデキる」だなんてとても言えませんが、それでもしっかりやっています。やっているつもりです。

今。僕は「面白そうだ」と感じたことにはとりあえず首を突っ込むようにしています。それが自分の納得できる方向につながると信じて。何となくその方向が分かりかけてきたところです。このブログを始めたときはもっと曖昧でしたが、その頃よりかは具体的になって来ました。出来るなら、自分の意思を通すための仕事ができるようになれるように。「これやれたら、面白いじゃん」を形にできる人になれるように。もっと足と手を動かしていきたいと思うのです。

少々、感傷的に書いた今の気持ちでした。…こんなこと書いて大丈夫かしら 苦笑

ちなみに組織のすべてが嫌いという訳ではありませんし、否定しているわけでもありません。今、その組織が存在しているとうことは何らかの意味があるとは思います。というか、僕のこの文章もロジックとして破綻している部分なんていっぱいあると思います。だから、何が言いたいかというと、僕は根本的に組織(特に大組織)に対して拒否感がある人間なのかもしれないなということなのです。

愚にもつかない思い込みに基づいたロジック。でも、それが価値観ってやつなんじゃないのかな―。こういうことは本来、大学生のうちに気づかないといけないことだと思います。いや、嘘です。気付いてました。ハッキリと。

でも、あのときは生活や家族とか彼女とかの今後を考えると、就職しなければいけないと思っていた。だから、無理やり頑張りました。今考えてもかなり無理していたと思います。そして、運良く給料は少ないながらも安定した生活を送れています。ところが、3年間勤めてあらためて最近思い知っているので、書かなければいけないと思ったのです。
  1. 2012/09/25(火) 21:36:02|
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2011年の漢字が「絆」ってどうなのさ 

SPBS作家・ライター養成講座のコーナーです。目的は文章の説得力と読ませる力をつけること。感想・批判・賛同・反対などなどコメント頂けると嬉しいのです。講座の条件は以下の通り。

今回は1月の第1回分です。テーマは具体的テーマ「2011年」か抽象的テーマ「すっきり」。僕は「2011年」を選びました。
以下、本文です。どぞ~。

***

タイトル「 2011年の漢字が「絆」ってどうなのさ 」


2011年は人と人との「繋がり」が注目された年だと思う。東日本大震災、アラブの春などインターネットの力を借りて「繋がり」の力が示された年だった。

そんな中、日本漢字能力検定協会が2011年の漢字は「絆」と発表した。なぜ「繋」ではないのかという疑問もあるが、それ以上に僕はこの言葉に気持ち悪さを感じる。「絆」は「断つことのできない人と人との結びつき」を意味するが、僕には特にポジティブな免田を毛を強調する言葉のように思えるからだ。

物事には必ず表と裏がある。「絆」が人と人との繋がりのポジティブな面を表すとしたら、ネガティブな面を表すのは「しがらみ」だ。何せ絆というほどの深い繋がりである。例えば家族だ。家族のために頑張ることも出来るが、逆にあきらめなければいけないことも多いだろう。一般的に言って突然一人旅に出てみたり会社を辞めたりすることは妻子持ちでは難しい。それでも、家族ならまだ良いほうだ。これが会社や地域に広がっていくとさらに絆=しがらみも増える。そのマイナス面を無視して絆と言い切るその無神経さが僕には気持ち悪いのだ。

家族も地域も助け合いで成り立っている。それは素晴らしい。しかし、あくまでもひとりひとりを助けるための装置である。個人のための家族や地域であってその逆ではない。個人が自由に快適にやっていくために存在しているはずのものが、いつのまにか個人の自由を、快適さを制限してしまう。手段が目的化してしまうことに僕は気持ち悪さを感じるのだ。

東日本大震災では多くの人々が被害にあった。大変な苦境に立たされた人も多いことだろう。そんなときはいつもうざったかった家族や地域の人たちがやけに温かく感じるものだ。さらに支援が多くの国や会社、若者たちから届けられた。コミュニティや地域が見直されるようになってきた。そういう状況を見て直接の被災者ではなくても人との繋がりに温かみを感じた人は多くいたのだろう。2011年の漢字が「絆」というのも頷けるというものだ。

しかしそれでも、僕は言いたい。それは物事の一面でしかないと。人との繋がりには悪い面もあるのだということを。東日本大震災でも血縁地縁のしがらみにより放射能の恐怖から逃れられなかった人がいたはずである。だから、僕は2011年の漢字は「繋」だと言いたいのだ。その方が2011年をクリアに表していると思うのだ。

***

如何でしたでしょうか。

2011年の漢字に対する違和感について書いてみました。「誰かの為に」とか「何かの為に」って言葉を安易に使うのには賛成できないのですよね。これについてはまた後日、書こうと思っていますがメリットばかりが強調されて、デメリットが意識されていないように感じるのです。使い方によっては危険な考え方なのに。

それはさておき、以下、講師からの評価です。

評価点:

指摘点

うーん、今までのを考えても僕の陥りやすい罠として骨組みが良くても肉付けがイマイチというのが挙げられそうですね。主張は分かるのだが、説得力が弱いという。具体例についてはもっと考えたほう良いかもしれません。

文章力向上のためにもご意見・感想、批判、指摘なんでも良いのでコメント待ってます!それでは~。
  1. 2012/09/25(火) 21:34:57|
  2. SPBS作家・ライター養成講座の記録
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「「当事者」の時代」に関する覚書

「当事者」の時代 (光文社新書)「「当事者」の時代」に関して思いついたことがあったので、覚書として頭の中ダダ漏れツイートをしました。その記録です。



***

「「当事者」の時代」についてちょっと考えたことがあったので、その流れを記録の為にツイートします。 (注)結論は出ていません。

  1. 「「当事者」の時代」の「当事者」というのは、もしかして「社会や現実に直接立ち向かわないといけなくなった状況の人」を指すのかもしれない。

  2. 「「当事者」の時代」で例として挙げられる「当事者」は、親族が事件の被害者になった人と東日本大震災の被災者だ。どちらも社会的な事件であり、例外的状況である(震災が本当に例外的かどうかは長くなりそうなのであえて述べません。)。

  3. ということは、その「当事者」は、中間共同体の成員の価値観と通常より多く外れるだろう。当事者のことを当事者以外が分かるのは難しい。共感しあえなくなる。そういう意味で、社会や現実と個人として立ち向かわないといけなくなる。仲間など集団をクッションに出来ない。

  4. 確か佐々木俊尚さんは日本における中間共同体をかつては「ムラ」。少し前は「会社ムラ」として挙げていたはず。このムラでは掟や空気を読まないものは排除される。当事者が空気を読むことが可能だろうか。

  5. もちろん可能だろうけど、ムラの成員との価値観が当事者的体験以前とは違っているはずで、そうなると空気を読むことが難しくなるのではないだろうか。

  6. あれ、でもそうすると被災者はそれに当てはまらない気がするな。当事者がたくさんいるから、仲間ができるし。共感だって出来る人が多いはず。

  7. 「当事者」の絶望的な例と希望を持てる例。二つを分ける差は何なんだろう。「当事者の数=共感できる人の数」なのかな。当事者の周囲で「自分に関係あることだと思う人の数」なのかな。

  8. うーん、まとまらない。そんな徒然書きでございました。


***

本当にまとまってませんねえ。勉強不足もあるのでしょうが、感想を書くまでには勉強不足なりの一応の結論を出したいと思います。







「当事者」の時代 (光文社新書)「当事者」の時代 (光文社新書)
佐々木 俊尚
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  1. 2012/09/25(火) 21:34:09|
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美肌と蚊とリアリティ

SPBS文章通信講座のコーナーです。目的は文章の説得力と読ませる力をつけること。感想・批判・賛同・反対などなどコメント頂けると嬉しいのです。講座の条件は以下の通り。

今回は2月の第1回分です。テーマは具体的テーマ「地方」か抽象的テーマ「なめらか」。僕は「なめらか」を選びました。東京生まれ東京育ちの自分に語れる「地方」はないかと思いまして。以下、本文です。どぞ~。

***

タイトル「 美肌と蚊とリアリティ 」


滑らか過ぎる肌が苦手だ。どうも人工的で冷たい気がするからなのだが、ザラザラしてたりデコボコしているのはもっと嫌だったりする。不健康や怠惰を思いこさせてしまうのだ。本当にキレイなのは滑らかな肌にちょっとしたキズやデキモノがあるときだろう。そこにキレイなだけじゃ片付けられない人間本来の生々しさを感じる。

先日、通勤電車内で美人とでも言えるようなキレイな女性が座っていた。整った顔立ち。完璧な化粧と服装。髪型だって完璧だ。他の男性客は目を合わせないようにしながらも彼女を意識していることが分かる。ところが、なぜか僕は彼女に惹かれることができなかった。なんだか作り物のような気がしたのだ。

電車が揺れて彼女の足がよろけた。そのせいで彼女は僕の体にもたれかかる形になってしまう。

「すいません。」

彼女は気恥ずかしそうに態勢を整えた。その時彼女の首筋に蚊に咬まれた跡が見えたのだが、それだけでドキドキしてしまった。それまで考えられないほどのドキドキ。傍から見たら赤面していたはずだ。

なぜだろう。考えてみるときっと彼女が僕にとって生きた人間になったということだと思う。作られた顔や髪型、服装。それらは確かにキレイだが、僕の心には迫ってこなかった。ガチガチに固めた理性の様ヨロイのように見えたのだ。そんな固そうなもの僕は苦手だ。ところが、首筋の咬まれ跡一つで彼女は僕にとって同じ生きた人間のように見えた。その綻びのようなものに人間を見たのだ。ご飯を食べて排泄してセックスして眠る。同じ人間(しかもとびきり美人!)のように見えたのだ。

世の中には自然なように見せかけて実は意図的に加工されたものが山ほどある。サンプル食品。スーパーに売られているやけに形の揃った野菜や果物。美人女優のすべすべの肌。滑らかなものとでこぼこのもの。加工物と自然。またはその中間。

加工されたものは人間が手間暇をかけて作り上げた努力の結晶である。キレイに見せたい。魅力的に見せたい。そういった気持があるから、見た目を整えて揃えて滑らかに。キレイにするのだ。だが、それの行き着く果ては本当に魅力的なのか。人間は共感できる個所があってこそリアリティを持って他者を認めることができるのだ。ガチガチに化粧したり完璧にキレイにしたものは、共感できないし案外デコボコな部分が少しあった方が魅力的に見えるのではないだろうか。少なくとも僕はそう思う。

***

如何でしたしょうか?書きながら考えた割にはうまくまとまったと思うので、自信アリでした。さて、講師の方の意見はどうでしょう。

評価点:

指摘点:

以上です。全体として今回は好評でしたね。ただ、前回の添削を踏まえて、普遍性を意識しすぎた感はあるかもしれません。どうも自分はロジックや普遍性を強く意識しすぎるキライがあるようですね。「個人的体験や嗜好をいかに説得力を持って示すか」。ここに今後の肝がありそうです。

そんなわけで、文章力向上のためにもご意見・感想、批判、指摘なんでも良いのでコメント待ってます!
  1. 2012/09/25(火) 21:33:47|
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