「ナタリー・ポートマンが主演でアカデミー賞受賞のサイコスリラーだって!?」ということで、公開当時から気になってはいたのですが、結局見れず、ツタヤが半額だったので借りました。
以下、本文の目次です。
あらすじ
見どころ
ナタリー・ポートマンの演技
現実と妄想の区別がつかない演出
子の親離れ
最後に
あらすじ 本作を強引にまとめると、「良い子ちゃんが主役に抜擢されるために悪くならないといけなくて、でも急に悪くなろうとしたものだから心を病んでしまった」という話です。
えぇ。身も蓋もなくまとめるとこうなります。
見どころ しかし、本作の見どころはストーリーの大筋とは関係のないところにあります。
・ナタリー・ポートマンの演技
・現実と妄想の区別がつかない演出
以上の2点です。
ナタリー・ポートマンの演技 本作の主人公であるニナ(ナタリー・ポートマン)は、ニューヨークのある一流バレエ団(バレエ・カンパニー)に所属し、バレリーナとして人生の全てをバレエに捧げる日々を送っています。
一緒に住む母親のエリカ(バーバラ・ハーシー)は元ダンサーで、自分が果たせなかったバレリーナとしての夢をニナに託し、彼女に対して過剰なほどの愛情を注いでいます。
そんな中、念願の主演を果たせることになるのですが、その題目は「白鳥の湖」。主演は白鳥と黒鳥の両方を演じなければいけません。
ここで、軽く白鳥の湖のストーリーを説明しておきます。
悪魔に白鳥に変えられたオデット姫が元に戻る方法はただ一つ。王子からの愛の誓いのみ。もう少しで元に戻れそうなところでオデット姫とそっくりな黒鳥が王子を誘惑して、王子は誘惑に負けてしまいます。そのせいで呪いは解くことができなくなってしまうのです。そして、絶望したオデット姫は命を絶ちます。
この白鳥と黒鳥を同時に演じなければいけないのですが、黒鳥は悪魔の娘のため、そのキャラクターは妖艶でセクシーでなければいけません。
対して、白鳥は清純無垢なオデット姫。
禁欲的なニナは白鳥を演じることはできるのですが、妖艶な黒鳥を演じることができません。
演出家によって、セックスの愉しみ・現世の愉しみを知るように言われたニナは努力します。何しろ念願の初主演です。半端なプレッシャーではありません。
元々、内向的なこと。母親からの過度なプレッシャー。ライバルの登場。などなど。ニナは精神的にどんどん追い詰められていくのです。
しかし、それでも最終的にニナは黒鳥になることができます。ただし、精神の安定と引き換えに。
この清純無垢な白鳥から。親に保護された子どもから。妖艶でセクシーな黒鳥に。自立した大人に。急激に変わらざるを得ない状況に追い込まれたニナの努力・葛藤。
そういった精神をナタリー・ポートマンが見事に演じきっているように見えるのです。
内向的な主人公を感情の起伏をどのように表すか。黒鳥に変化するまでに演技もどうやって変化させていくか。しかも、あまりに急激な変化とプレッシャーだったために、完全に正気を失ってしまう。そこまでの過程。
本当に最後の最後。ニナの台詞には痺れました。
「完璧よ。」
彼女は完璧のためにその心までをも差し出したのです。何という執念!
現実と妄想の区別がつかない演出 そういったナタリー・ポートマンの演技が、見事な演出でさらに光ります。
完全にニナ目線で描かれているので、本当は現実に何が起こっているのかをニナが聞いた、他の登場人物たちの台詞から読み解くしかないのです。
作中では、何度も「起きてはいけないこと」が起きます。一晩を共にしたした人にそのことを否定されたり、病人がナイフを自分の顔に突き立てたり、絵が笑いだしたり。
素晴らしいのが、その「起きてはいけないこと」が特に変なことのない現実と完全に地続きで描かれていること。
それもこれも徹底したニナ目線であるからこそでしょう。
観客もニナと一緒に(もちろん疑似的にですが)精神的に追い詰められていきます。
そこに来て、最後の演技をやりきったあとのニナの表情とセリフ。
鳥肌が総立ちでした。
子の親離れ 本作のストーリーは、母親とニナとの葛藤を描いたものとも言えます。
なぜなら、白鳥の純真無垢は、母親によって守られた状況で育まれたものだからです。黒鳥になるためには、現実を知らなければいけない。現実の愉しみ(セックス)や夜遊びを知らなければいけない。
だから、必然的にニナは親のことを鬱陶しく思うようになります。
ニナにとって母親はもちろん大切な存在でしょう。しかし、ニナにとってもっと大事なのは初主演を立派にやりきることです。なぜなら、母親がバレリーナとしてニナに過剰に期待しているのです。その期待にニナは応えなければいけません。
そうなると、どうなるでしょう。
ニナは母親の期待に応えなければいけない→しかし、そのためには現実の愉しみ(セックス)、夜遊びを知らなければいけない→母親として子どものニナの夜遊びは許せない
「保護者としての母親」と「過剰な期待をする母親」の二者が、ニナに対してダブルスタンダードを示しているのです。
平常時なら、良くあることですが、人生のかかった大舞台を前にしてただでさえ大きなプレッシャーなのに、最も身近な者にこんなストレスをかけられたら溜まりません。
何しろニナは親のためにも本当は嫌なのに頑張っているのですから。
そうやって頑張った甲斐もあってニナは黒鳥を演じきれるようになるのですが、そのときのニナは黒鳥的な欲望を持っています。「母親のために」が抜け落ちて、自分のために主演をやりきろうとするのです。
ですから、母親がニナの精神を心配して出演を止めてもニナは聞きません。ニナは主演を演じたいのです。他の誰よりも完璧に。
舞台が始まる前。ニナが母親の反対を押し切って家を出るときの一言は非常にすかっとしました。それまで抑圧されてきたニナがついに自分の欲を出して、親離れが出来たように思うのです。
「私が主演よ!母さんはただの群舞!」
この唯我独尊な台詞!溜まりません!!
最後に 以上のようにサイコスリラーとしても、ニナの成長ストーリー(歪んではいますが)としても楽しめる本作。見どころがたくさんですが、以上の他にもCMでご存知の黒鳥のダンスも大きな見どころです。
これは是非とも観て欲しい一作です!
- 2012/02/13(月) 22:43:55|
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★★★★☆
先週行った
「リトルマガジンのスピリット」や
「はじめての編集」で取り上げていて、どちらもヒッピーとかロックとかリトルマガジンとかが流行った時期の米国の空気管を知れる資料だとのことなので観ました。
(2000年放映って結構最近の映画だったようですね。びっくり。)
以下、本文の目次です。
内容
感想 導入
全体の感想 ロックバンドとリトルマガジン
細部の感想 ペニー・レインと主人公の母親
それと以下の文章はこちらのサイトを参考にしています。
wikipedia ローリングストーンwikipeddia ケイトハドソンproduction notes あの頃、ペニーレインと内容 話の大筋は少年時代にロックに目ざめた若干15歳の少年がロック評論家としてローリングストーン誌(当時の有名リトルマガジンだそうです)に掲載するために(スティルウォーターというバンドのツアーに同行取材するというもの。その同行取材にペニーレインというグルーピー(作中ではバンドエイドと自称しています)の娘が一緒に来て、主人公はペニーが好きなんだけど、ペニーはバンドのメンバーが好きで…みたいな話。
見所は、当時のロックバンドの生活(酒、女、ドラッグ尽くし)が垣間見れることと15歳の少年がどんな目でそれを体験するかということ。
なんとwikipediaによると監督の実体験を元にして作られているらしくて、そういう点でも資料的に価値のある映画なんだろなーと思います。
感想 導入 この映画の感想は全体と細部に分けて書いていこうと思います。
ここで言う全体というのは、例えば、ストーリーであったり構成であったり当時の空気感であったり、そういう総合的なイメージです。
細部は、例えば、一つ一つのエピソードであったり役者の演技であったり、といった全体を構成するピースのようなイメージです
全体の感想 ロックバンドとリトルマガジン 僕の全体の感想は「参考になった」です。
1970年代にロックが社会の中でどういった位置づけだったのか。リトルマガジンであるローリングストーン誌の影響力。ロックバンドとグルーピーという追っかけ(セックスで親密な関係になろうとするものを主に指す侮蔑語のようです。)の関係。ロックバンドの生活。米国の地理的な広さ。…などなど。
先に書きましたが、本作は1970年代を舞台としています。1967年に創刊され人気を博していた(作中では。現実は知りません。すいません。)ローリングストーン誌のライターとして若干15歳の主人公が、当時の人気バンドのツアーに同行するというストーリーです。
ですので、1970年代における米国の若者文化の一端が垣間見れました。しかも、監督の実体験に基づいているということが、話にある程度の信憑性を持たせています。このままではないにしても、近いようなことは当時行われていたのだろうなという感じでしょうか。
何より参考になったのは「内輪からメジャーへ」という感覚です。
これはバンドマンなんかは今でもそうなのかもしれませんが(僕はバンドマンの物語はソラニンとBECKくらいしか知りませんし、どんな文化なのかもあまり知りません。)、初めは自分達の好きなことを好きなようにやっていて、内輪話や内輪言葉もたくさんある。それがいつの間にかメジャーになっていく過程で、商業主義に侵されたりメンバー間の確執が起こっていく。
それが、特にスマートでもなんでもなく僕にも分かるようなラフなトーンで描かれていく。
僕は作中人物のように馬鹿騒ぎはあまりしないほうですが、それでも作中人物達の気持ちは共感できます。しかも、やっていることも演奏を除いては本当にそこら辺のにーちゃんと同じようなもので、そこにまた親近感を覚えます。
そして、主人公。若干15才ながらも文章力を認められて、有名誌に載ることができるということ。文章で何がしかの対価を得たいと考えている身からすると取材の重要さも伝わりました。
自分達の好きなことを好きなようにやっていく。それがもしかしたらメジャーへの道に続いているかもしれない。メジャーでなくても生きていく道になるかもしれない。それを実感を持って伝えてくれる作品でした。
(「グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ」も合わせて読んだらもしかしたらもっと面白くなるのかもです。ていうか読みたい!)
細部の感想 ペニー・レインと主人公の母親 細部の感想は全体の感想とは違い、もう単純に面白いです。
まず、ペニー・レインがカワイイ!もう最高に可愛い!!
明るくて、ミステリアスで、可愛いのにどこか大人の色気も感じさせる演技。何より笑顔がイイですね!
欧米人の顔はあまり好きではないのですが彼女は別格です。ケイト・ハドソン。覚えておこう。
また、主人公がペニーのことを好きなのに、ペニーが他の人を好きなので言い出せないところとかもなんだか良いですね。主人公のもどかしさが良く分かります。も、ね、青春って感じです。
それと、本作で面白かったのが、主人公の母親が関わるシーンです。
主人公の母親は厳格で、主人公の姉はロック好きなのもあって反抗心丸出し。ついには家を飛び出してしまいます。このシーンが映画の冒頭にあるので、ついいわゆる厳格な母親で、教育ママ的ないけ好かないタイプかなーと思っていたのですが、コレが案外良識を持っているのです。
姉があまり出来ない子で主人公が飛び級するような優秀な子だったからでしょうか。それとも男性だから?母親の愛情は主人公に注がれます。でも、思いっきり縛り上げるわけではありません。ちゃんと主人公が姉の手引きでロック好きになりますが、それにも一応の理解を示しますし、ライブに行くのもツアー同行も条件付で認めます。
それもこれも主人公が優秀で信用があったこともあるのかも知れませんが、主人公はそんな厳格ママをうまく操縦しますし、母親もそれを受け入れます。何もかもがダメという母親ではないのです。
で、この厳格でありながらも理解のある母親を示すのが母親とバンドのギタリストが電話越しに話すシーンです。
ツアー同行中は必ず定期的に電話をするように主人公は言われているのですが、不良のロックバンド(ロックは権威の反抗ですし)としてはそんな甘ちゃんはいじりたくて仕方ないのでしょう。主人公が話しているところをギタリストが強引に受話器を奪います。そこで、ギタリストと母親が話します。(以下、台詞は違いますが大体こんな感じの内容です。)
ギタリストは言います。「俺に任せておけよ!何も心配するな!きっちり不良にしてやるぜ」威勢が良いですねー。
呆れる母親。心配しまくる母親。母親はギタリストに言います。「その子は優しい良い子なの。どうか傷つけないで。まだ15歳なのよ!」
ギタリスト「…!!!!!!!!!」
多分、主人公が15歳だとは知らなかったのですね。それを知ってから」のギタリストの神妙さが最高です。
母親は言います。「大丈夫。あなたは今はそんなだけど本当は良い人なのよね。信じているわ。任せていいわね」
ギタリスト「ええ。はい。あの。息子さんのことは責任持って面倒見ますんで・・・」
・・・えっ…ちょっ…不良じゃなかったの!?
…結論。こいつは普段は悪ぶっててもイイ奴だwww
さらに、物語の終盤ですね。このギタリストと母親が分かりあうシーンがあるのですが、そこも笑えます。うーん、良い母親だ。
最後に なんだか本筋とは全く関係のない感想となってしまいましたが、細部も含めて面白かったと言うことで。
最後にまとめますと、主人公の演技も微妙な思春期の心情が出ていて良い感じですし、バンドメンバーの最低っぷりもイイ感じです。
最近の泣かせたりとか怖がらせたりとか、むやみに爆発したりとか、そういう商業主義まっしぐらな作品に疲れた人にはオススメできます。
自由でユーモアが効いていてささやかな成功もある。70年代のロックやリトルマガジンなど文化の勉強にもなる。観ててわくわくする作品です。
僕はロックが聞きたくなりました。
- 2012/01/31(火) 19:56:16|
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昔からなんとなくラテン系の音楽に興味がありました。でも、あくまでドラマとかゲームとかで流れていたら嬉しいくらいで積極的にCDを買ったり借りたりすることは今までありませんでした。
もう覚えていませんがどこかで名作らしいということを聞いたのがこの作品です。
以下、本文の目次です
内容
見所
コンテクストが好感の度合いを上げる
最後に内容 内容はwikipediaを観たほうが早いですが、あえて自分の言葉でまとめてみますと、「キューバ音楽の老演奏家の人生とライブ」といったものでした。
昔、キューバにあった「ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ」というクラブで活躍していた演奏家達をギタリストのライ・クーダーが集めて同名のバンドを組みCDを出しました。そのCD録音、録音するまでの過程、ワールドツアーでの演奏、そして演奏家達それぞれへのインタビューを映して、映画にしたものがこの音楽ドキュメンタリー映画「ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ」です。
見所 見所は演奏は勿論ですが、僕は演奏家たちへのインタビューがこの映画には外せないと思っています。
このインタビューによって、人気の音楽家のライブ映像ではなく、「ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ」というバンドのストーリーが浮かび上がるのです。
キューバを代表する演奏家たちが、ライ・クーダーによって集められバンドを結成するまで、どんな人生を歩んできたか。音楽との出会いは何か。楽器や曲に対する思い入れは。などなど、曲自体が変わるわけはないのですが、そういった演奏家のストーリーを一つ一つ聞くごとに、演奏を素晴らしいものと思えるようになってきます。
たぶん、何気なく曲を聴いただけでしたら「この曲、好きだなー」と思っただけで終わっていたかもしれないと思います。でも、この映画で演奏家たちの人となりに少しでも触れることができ、そのために単なる「割と好きな曲」ではなく、「あの人の曲」になったのだと思います。
コンテクストが好感の度合いを上げる コンテクストマーケティングという言葉があります。アマゾンの「この商品を買った人はこんな商品も買っています機能」やitunesのリコメンドなどなど「ユーザーの心理に対して自然な流れ・タイミングで商品を提示すれば売れる」というものです。
また、「エンゲージメント」。このサイトではこういった言葉で説明されています。
「ユーザーがどのくらいその旅行会社や旅行商品ブランド、デスティネーションに対して「愛着」をもっているかがこれから大きなカギを握る。」 僕は映画を観ることで、「ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ」という音楽を購入(orレンタル)する動機ができました。先に書いたように映画を観なければ、きっと「あー良い曲だなー」と思うだけで終わっていたでしょう。
ところが、映画を観ることでCDを購入(orレンタル)したり、行動を起こそうという気になったのです。
これは映画がコンテクストを用意したとも言えます。
(CDの方が先に出ているので、CDから映画を観ている人も多いでしょうし、そもそも今となっては知らない人も多いでしょうから映画に至るまでのコンテキストはこの際無視します。)
そのコンテキストに乗せられて実際に購買行動に至るわけですが、このとき、聴いてみてさらに気に入ったりすると2枚目3枚目と購入(レンタル)することになると思います。
この気に入ったときがエンゲージメントが為されたとき(こういう言い方で良いのか分かりませんが)だと思うのです。
そうなってしまえば、もう新曲は出ないと思いますが、もし同じ「ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ」ブランドでCDが出されたら僕は購入するでしょう。「あのブランドのならまあ間違いない」という理由で。
で、そう考えてみると、最近マンガや小説がよく映画化、ドラマ化、実写化、アニメ化、ゲーム化、フィギュア化などなどメディアミックスされまくっているわけですが、あれはきっとそうやって作品の世界観にエンゲージメントされた人をターゲットにしているのだろうなーと思うわけなのです。
(AKBもそうですね。あれはエンゲージメントされた顧客から搾れるだけ搾り取ろうと言う恐ろしいビジネスモデルです。)
僕は安易なメディアミックスは期待はずれが多いので好きじゃないのですが、こうやってビジネス的に考えてみるとコンテンツにお金を出さない人が増えているらしい昨今では仕方のないことかもしれませんね。
最後に なんだか話があらぬ方向に飛んでしまいましたが、何はともあれ僕はこの映画で見事にはまってしまったので、まずはCDに手を出そうと考えているのでした。
そこで、良かったら、もうアレだね。思う壺だね。全然悪い気はしないですがw むしろ望むところですがww
ラテンだけどしっとり系が好きみたいな方は観てみると楽しめるかもです!
それでは~。。
- 2012/01/27(金) 22:24:42|
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一昨日、せっかく「パイレーツ・オブ・シリコンバレー」と「ソーシャルネットワーク」を連続で見たので比較してみた記事を再掲すると書きましたが、今日します
ではどうぞー
***
一昨日、昨日の記事で書いてきた
「ソーシャル・ネットワーク」と
「パイレーツ・オブ・シリコンバレー」の感想
両者とも同じデジタルで世界に革命的な変化を起こした人々の話ということで、ためしに比較してみることにした
(なお、インターネットなどデジタル関連の知識についてはあまり知らないということを念頭において読んでください。)
(「うわっ、こいつこんなことも知らないのかよ?」と思ったらそこは優しく微笑んで大人の心得として流してやってください。もしくは注意してやってください)
・放映媒体
ソーシャル・ネットワーク:映画
パイレーツ・オブ・シリコンバレー:ケーブル・テレビ(ドラマ)→DVD
→世界的な注目度の差かも
マックとウィンドウズの戦いはまだPCなどデジタル機器が好きだったり、それらに関連する人たち(投資家含む)の話題であって、それ以外の人たちには関係のない話だった
しかし、フェイスブックは世界で5億人が既に登録していて、iPhoneなどスマートフォンの影響でデジタルの世界が身近になった影響もあり、さらにまだ登録していないけど興味がある人も多くいると推測できるので、映画ビジネスとして成り立つと考えやすかったのでは
・構成・演出
ソーシャル・ネットワーク:成功後から過去を振り返る形式
パイレーツ・オブ・シリコンバレー:成功後から過去を振り返る形式
→どちらも成功して話題になった企業をテーマとしているので、同じなのは納得
でも、ドラマだからなのか古いからなのか「パイレーツ・オブ・シリコンバレー」は安物のドキュメンタリーのような演出をしていてそれが残念だった
・出演者
(これは映画俳優に関して無知なので、印象だけ)
ソーシャル・ネットワーク:ザッカーバーグ本人と主人公のイメージが結構違う
パイレーツ・オブ・シリコンバレー:ジョブズの若い頃は知らないので判断できないけど、ビルゲイツはそっくり
→これは取材の確かさによると思われる
「ソーシャル・ネットワーク」はザッカーバーグ本人に監督は会ったことないみたいだし、演出からしてエンターテイメントの要素が強い つまり、映画の方向性からザッカーバーグのキャラクターを脚色している割合が強いのではないかと思う(実際、ザッカーバーグ本人も「着ていた服以外はすべてデタラメだ」って言っているみたいだし)
対して「パイレーツ・オブ・シリコンバレー」は、よりドキュメンタリーっぽいというか事実に即している割合が多いのかと思った
ググってもあんまりヒットしないから本人にインタビューしたりかどうかは分からないけど
こうやって比べてみると、どちらも成功した企業の軌跡を追っている点では変わりないけれど、話題性という点で大きな違いがあることが分かる
話題性 ⇒ 「ソーシャル・ネットワーク」>「パイレーツ・オブ・シリコンバレー」ということだ
このことから以下のことが考えられる
「
二つの企業が生まれた時代背景=タイミングが話題性に大きく関わっていること」ということだ
どちらの企業もそれまでにない革新的なサービスを生み出したことは間違いないが、アップル(この場合、iPhone以前なのでコンピューターと付けた方がいいか)とマイクロソフトは、未だコンピューターが普及する前であり、彼らはそれを普及することを手伝うような革新的なイノベーションを起こした
しかし、彼らの起こしたイノベーションは当時あまり普及していなかったコンピューターにおいてであり、ある程度普及した現在とは話題が伝わるスピードが違う
スピードが違うということは誰もが興味を持つようになるまでに時間がかかるということで、それがフェイスブックの場合は早かったということだ
どちらもインフラとしての機能を有しているが、アップルとマイクロソフトが整備したインフラは時間と空間を効率化するものであり、それが普及しきる前に作品の企画がされたのだろう
だから、「パイレーツ・オブ・シリコンバレー」はケーブル・テレビのドラマでしかなかったんだ
それに対して、フェイスブックの場合は、既にアップルとマイクロソフトが整備したインフラが普及しており、時間と空間が大幅に効率化された後の世界で成功した
そのような世界で成功したということは、それ以前と比べて
「成功した」という話題が急速に広まり、その話題性がさらにフェイスブックを普及させていくという好循環を生む
だから、「ソーシャル・ネットワーク」は映画にすることが出来たのだし、ザッカーバーグ本人が「着ていた服以外はすべてデタラメ」と公言していても映画化を許可したのだろう
話題性がフェイスブックにとっては追い風となるからだ 以上のように考えてきて、二つの映画の違いは、平たく言えば「時代背景」であり、もう少し詳しく言うと
「整備されていたインフラの質の違い」と言えると思った
また、両者とも既存のインフラを利用した上で、
「誰も気づいていないか、気づいていても面倒でやっていない、あれば便利なものを形にして成功した」という点が印象的だった
じゃあ、次に大きな成功を得るのはどんな事業なのか
フェイスブックというインフラを使って「誰も気づいていないか、気づいていても面倒でやっていない、あれば便利なもの」を作ることだろうな
うーん、こんなに規模の大きくなりそうなことだと何にも思いつかない
考えていこう
最後に、ここまで見てきて
「グーグルの軌跡を描いた映画は無いのか」
と思ったら
、近々、公開されるみたいアメリカでだけど
早く日本でも公開されるといいなあ
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- 2011/09/08(木) 19:47:36|
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8/24(木)にスティーブ・ジョブズがアップルのCEOから引退しましたね 実はもう2週間前のことだったりますが…www
ちょうど良いので過去に観たDVD「パイレーツ・オブ・シリコンバレー」の感想を再掲します
この作品。イギリスのドラマらしいのですが日本でもDVD化されていて、TSUTAYAでお勧めされていたので映画「ソーシャル・ネットワーク」を観た次の日に観ました
連続で観たので比較もしているのですが、長くなるので次回にします
では、以下から再掲記事です
どうぞ~
***
カリビアンでは断じてないww もう一ヶ月ほど前になるけど、話題の映画「ソーシャル・ネットワーク」とちょっと古い映画「パイレーツ・オブ・シリコンバレー」(1999)(こっちはDVDで)を続けて観た
どちらもデジタルで世界を革命した人たちを描いた作品ということで興味を持って、どうせだから、比較してみようと思うんだけど、その前に両方の映画の感想を書こうと思う
でも、
「パイレーツ・オブ・シリコンバレー」はかなりマニアックな映画じゃないのかなあ
僕はツタヤで「隠れた名作特集」をしていなければ存在すら知らなかった
それもそのはず、1999年と微妙に古い映画でしかも調べてみると、どうやら劇場公開はされていないみたいなんだよね
で、内容はというと、マイクロソフトとアップル(旧アップルコンピュータ、以下アップルと呼ぶ)の壮絶な戦いを創業者たちの学生時代から描いた作品
ビル・ゲイツ役とスティーブ・ジョブズ役の演技が光っており、ややドキュメンタリータッチの作品で、当時からいるマイクロソフトやアップルの役員(を演じた俳優)が撮影時点から過去を振り返るという内容
(キャラクターのせいなのかビル・ゲイツよりスティーブ・ジョブズの方の描写が多かった)
結構前の作品ということもあってなのか、正直、演出や構成は微妙
きっと
「世界を一変させた革命児はどんな人物なんだろう」
というニーズがあってそれに応えるためだったんだろうけど、
「ビルはこんな奴だった」
とか
「ジョブズは酷い奴だ」
とか
DVDのおまけみたいな、ハリウッド映画の宣伝で出演者が共演者や作品について語るみたいなシーンがいくつかあって、それのせいで何度も冷めてしまった
ただ、その演出以外は古臭いことを除けば問題なくて(僕は90年代前半くらいの作品だと思っていた)、アップルの躍進とジョブズのカリスマ、マイクロソフトの苦闘→躍進とビルゲイツの滑稽さをウマイこと対比させていて秀逸だった
特に両社の勃興期、ジョブズがIBMを敵視しているくだりとか、ビルゲイツがIBMを煙に巻くシーンは痛快で良かった
エスタブリッシュメントに対する対抗心は(有効に機能しているときにはだけど)斯くも血を熱くさせるものなのか! 印象的な台詞もあって、
まだマイクロソフトが零細企業だったときにビルゲイツが夜中に意味も無く山奥でブルドーザーを許可無く乗り回して騒ぐシーンで、モノローグとして
「あの頃の僕らは吹けば飛ぶような零細企業だった。生き残るためにはクレージーであることが求められた。だが、そのことが僕らにとっては好都合だったんだ」(うろ覚えなので微妙に違うと思うけどそこはスルーしてやってください)
IBM(当時)という巨人は巨人なりの良さがあるんだろうが、ベンチャーにはベンチャーなりの良さがある。そして、それを楽しめるものが成功するのだと言わんばかりの台詞
勿論実際には、実力・運・タイミングなどなど複雑な要素が絡み合っているんだろうけど、ジョブズもビルゲイツもベンチャーであることを楽しんでいるように見えてそれが僕にとっては好印象だった
ここまでプラスの面を書いてきたけど、もちろんベンチャーには大変なことが山ほどあるわけで
資金繰りはどうする?
事務所は?
契約は?
プライベートは?
などなど色々あると思うんだけど、一番意外だったのがアップルについてで
ジョブズはそのカリスマ性でアップルを率いていくのだけれど、傲慢で独断専行型、独自のやり方を貫くために社員に多くの負担を強いていて
その例として、「Lisa」の開発グループと
「Macintosh」の開発グループをわざと分裂させたこと、要求以上の仕事をしなかった社員に対して激しい罵詈雑言を浴びせかけたりクビにしたりしたことを描いている
また、自身のそういった行動を
「アップルはファミリーである」と言って
「家族なら喧嘩くらい当たり前だろ」と言って
正当化している
最近、iPhone4を手に入れてMac Book Airを触ってみて、アップル好きになってきていて次のPCはMacにしようかなと思っていたところだったので、この映画を見て正直ショックだったことは否めない
だが、一か月経って、
こういう記事など見て冷静になって考えてみたら、
「それも革新的であることの必要悪なのかもしれないな」と思うようになった
だって
革新的であるということは、ある意味で人の話を聞かないということでもあるし、アップルの様な規模で行うのであれば自分が思う最善の方法でそれを人に押しつける(人を巻き込むともいう)必要がある 僕はファミリーという考え方を強調することはどこか胡散臭くて苦手なのだけれど、
wikipediaで見る限り、映画はエンターテイメントだし脚色しているのかもと思って、やっぱりアップルが好きな自分に戻ってくることになった
好きになるにしても嫌いになるにしても対象のことを知ることは重要だよなあ
と映画の趣旨とは随分離れた感想になったところで、今日の感想終わり
***
如何でしたでしょうか?
半年くらい前の記事ですが、今から見るとおかしな表現も多かったりして結構赤面モノだったり…とはいえ今の文章も後から見たら赤面するんだろうなあ
マニアックな作品ですが、遠い世界に居ると思っていた二人に軽い親近感を覚えることができると言う意味でも本作は秀逸だと思います
まあどちらもきっと超がつくほど頭が良いのでしょうが…www
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- 2011/09/07(水) 20:34:44|
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